高田屋の主張
2枚の地図 [高田屋は物申す]
投稿日時:2008/09/10(水) 18:05
ここに2枚の地図があります。
1739年ロシアのシュパンベルグが千島のウルップ島までの地図を作成したものの複製と思われます。
英語版は1764年イギリス発行の「カムチャッカ誌」の綴じ込み地図
フランス語版は1768年フランス発行の「シベリア旅行記」の地図帳のクリルの部分
地図の形状、記載事項が完全に一致していることから、
原版の忠実な翻訳・複製品であることがわかります。
ここで注目するべき点があります。
地図を拡大してみましょう。
英語版
フランス語版
地図には各々英語、フランス語で「ロシアのクリル列島の地図による」と書かれ
「マツマエ」と書かれた北海道の隣の
緑の島と表示された国後・択捉の下には
「日本人の島」と書かれているのです。
ということは、この2枚の地図の意味するところは、
「当事、ロシアも択捉国後は日本人の島と認識していた証拠」
ソ連時代にレニングラードで現地テレビ局主催で討論会を開きました。
ロシアの高名な歴史学者が上の2枚の地図と同じ地図の写真を持参されたので
私も提示したところ、「私の地図には文字なんかない。」と、たちまち不機嫌になりました。
●初めから書いていなかったのか?
●字だけ削除して写真に撮ったものか?
英語、フランス語記載内容の一致、忠実な複写を考えると
原版にロシア語で何が書かれていたかは、自ずと判ることではないのでしょうか?
このエピソードの詳細は2007/11/20号の「財界」高田嘉七のエッセイとして掲載されました。
2枚の地図は高田嘉七が館長を勤める
函館の登録博物館、北方歴史資料館に展示されています。
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