高田屋の主張 ブログテーマ:高田屋嘉兵衛
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高田屋の経営思想
[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/09/28(日) 13:48
約200年前であったことを念頭に置いてお読みください。
「高田屋」という法人で、嘉兵衛は代表取締役として活動していました。
(実子を廃嫡し、高田屋を私物化しませんでした)
◆経営規模は日本最大ではないかと考えられます。
1833年の幕府による没収財産は、各説あるものの現在に換算すると
数兆円~数十兆円と言われるほどの莫大な財産でした。
◆日本の資本主義の元祖であり、マルクス・ケインズ以前にその中庸を執った経済活動を実践。
当時は米が日本経済の基本であり、富豪は田畑を持つことが当然の時代に
店舗、倉庫、住居以外の不動産を取得せず、資本をすべて商品、船舶に投資。
資本の回転効率を計り、幾何級数的に増大、さらにその資本を独占せずに社会還元させて
一層の企業繁栄を図った。
■ 業務内容 | ||
銀行業務 |
預金業務 為替業務 貸金業務・年賦 |
様々な所から百両、千両単位で預かり金を受けていた。 現在の為替手形と同様の為替手形を発行していた。 年賦は貧民救済のため、取立ては行わなかった。 |
運送業務 |
一般運送 兵員輸送 代理運行 |
当時の大量輸送の手段は船しかない時代に大量の船舶を保有 東北各藩兵を北方防備のため蝦夷へ輸送 幕府の官船の運航も一手に引き受けていた |
造船業務 |
自社船の造船 官船の造船 船匠の養成 |
当時の重工業である千石積以上の造船所を作る 幕府の官船の造船も一手に引き受ける 日本人による初の洋式船「函館丸」を作った続豊治を輩出 |
商社業務 |
自社船団で各地で物資の買入れと販売をしており 特に一大消費地江戸への物資供給は莫大なものだった。 |
|
漁業 |
北洋漁業の元祖、漁業だけではなく流通も押さえていた為に その収益は膨大なものだった。 |
|
倉庫業務 | 自社倉庫を多数建設し、現代の保税上屋業を行っていた。 | |
金銀相場の船による早い情報網、現物輸送を利しての差益など 現在の大銀行・鉄道・トラック輸送・大商社・重工業・商品取引の大手数社分に加え 政府事業も委託されていたマンモス企業だった。 |
■経営の特徴 | |
安全運行管理 | 高田屋の船の難破記録は見当たらず、損害保険の無い時代に莫大な利益を輩出。 |
品質管理 | 多くの等級を設け、量目を明示して厳正に管理を行った。 |
ブランドの確立 |
品質管理の厳正な高田屋の山高印は日本中に検品無しで流通。 200年前としては大変な信用だった。 |
技術革新 |
有視界航法の時代に沖走り航法の確立。 三陸海岸に打ち寄せられる危険が無く、東廻り航法の基礎となる。 従来の北前船の江戸-松前 日本海航路に比べ飛躍的な短縮。 |
流通革命 | 沖走り航法による東廻り航法の効率UPからくる利益は莫大であった。 |
開発 |
函館から北海道東側を通り、根室、エトロフに至る安全な航路を開拓し たくさんの場所が誕生し、その多くが現在の市町村として残っている。 ●北方領土を1800年より日本領として確立したこと ●函館、根室が現在も市として残っていることの基礎 いずれも高田屋が作ったと言って過言ではない。 |
人事管理 福利厚生 |
・賃金台帳の整理、帳簿・事務取扱規程の明確化により賃金の不公正を排除 ・離島、僻地への医師の常駐 ・アイヌと和人の待遇を同等とした 以上の施策により、高田屋の場所には良質な労働力が集中 一方収奪の激しい松前場所は人手不足で事業が頓挫。 |
利益の社会還元 |
高田屋管理の拠点では、場所繁栄のため 自己扱い高の半分を和人・アイヌ・自己使用人・その他区別無く配分。 そのため多数の人が集まり、函館・根室などの都市ができ、労働力の確保 江戸の帰り船で積んだ日用品の販売のための内需拡大が可能となった。
また、公共インフラの整備、失業対策事業、窮民救済を無償で行い 「適切な企業の社会奉仕はより一層の利益となり企業に還元される」という 大きな近代経営の思想をもった経営だった。 |
1833年 高田屋闕所
[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/09/14(日) 10:27
嘉兵衛没後、2代目金兵衛になった高田屋は
●旗合わせ
●密貿易
以上の嫌疑により
1832年 松前藩の取調べを受け
1833年 幕府評定所で闕所(全財産没収)となりました。
【密貿易】
ロシア船との密貿易の疑いがかけられましたが、
審問の末その事実は認められませんでした。
【旗合わせ】
高田屋の傭船(高田屋が借り上げた他者の船)が北洋でロシア船と出会った際
山高印の屋号を掲げ、無事通過したことを幕府に報告しなかったとの罪。
取調べの結果、全乗組員中その事実が認められたのは、
傭船の船頭ただ一人との記録が残っています。
要するに「旗合わせ」⇒鎖国法の拡大解釈により闕所となりましたが
冤罪であったことは明白です。
(1869年無罪確定するも没収財産の返還は未だに無い)
今はやりの「国策捜査」の典型と言えるもので
幕閣は、上記2点の罪で松前藩に起訴をさせて、
取調べで事実が出なかったのにもかかわらず闕所として高田屋を潰しました。
その理由は何故なのか?
次回以降で解説していきます。
★独り言★
属に言う鈴木宗男衆議院議員事件の際、
「ムネオフラッグを掲げた船はロシアに拿捕されなかった」
と報道がされていましたが、当事その関係の仕事を実際に行っていた弟子がいるので
そのような事実は全く無かったことをよくわかっています。
「ムネオフラッグ」などの発想は、高田屋の旗合わせ事件から得た発想なのは明白、
一般的ではない高田屋の歴史についての知識を持ち合わせていた人物を考えると
かのデマゴーグの発信元は、マスコミ関係者ではなく、ある機関なのが容易に考察できます。
高田屋と北方領土
[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/09/11(木) 13:03
今後も、昨日(9/10)の「2枚の地図」のように、
北方領土についての話題を取り上げる事もあると思います。
その理由は、国内外からの一般的な評価は
『高田屋嘉兵衛=日露外交の先駆者であり、公共事業も数多く手がけた大商人』
ご存知の通り、重要な側面は
『こんにちの北方領土周辺は、高田屋が開発した、高田屋のテリトリーだった』
と言う事実です。
年号 |
嘉兵衛の軌跡 |
備考 |
1798 |
近藤重蔵、最上徳内 エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる |
|
1799 |
幕府役人近藤重蔵の委託を受け クナシリ-エトロフ島の航路を開く |
|
1800 | エトロフ島17ヶ所に漁場を開く | |
1801 | ウルップ島などの幕府巡察に従う | |
1802 | エトロフ島アリモイに築港 | |
1810 | 幕府からエトロフ場所の請負拝命 |
ソ連時代から、数回ロシアに招かれて訪問しておりますが、彼らの認識は
高田屋嘉兵衛⇒日露外交の先駆者、大商人
高田屋嘉兵衛=領土問題の元祖
このことは知らなかった方が多いようです。
1991年 ソ連の日刊「太平洋の星」I.ゴルバチェンコ氏が
函館の北方歴史資料館を取材した記事の一部を掲載します。
ここでは、たくさんのことを考える。ただひとつの想いだけがこびりついている。
「彼の記念像があるのは、きわめて正当なことだ。
これは、日本の商人と2人のロシア人航海者の3人の人間的な運命の資料館なのだ。
彼らは、その子孫たちが、自分たちがいなくなった後で、
お互いの間に『北方領土』のカベを数十年を重ねてこしらえるとは思いもよらなかった。
正しき者に神意あれ・・・・・」。
日本初の民間外交官としての嘉兵衛
[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/09/07(日) 13:44
高田屋嘉兵衛に対するロシアからの評価は
時代・体制・政権がどう変わっても常に尊敬を受けてきています。
帝政ロシア・ソビエト連邦・ロシア連邦の高田屋嘉兵衛に対する評価は全く変わっていません。
西暦 |
年号 |
出来事 |
国体 |
1814 | 文化11 | オホーツク長官よりゴローニン事件解決の感謝状を戴く | 帝政ロシア |
1854 | 安政元 | 遣日大使プチャーチンが箱館に来た際に遺族への贈り物を申し出る | 帝政ロシア |
1861 | 文久元 |
ニコライ司祭箱館に来た際に遺族へロシア人画家による肖像画を持参。 日記には「長生きしていたら、逢えるかも知れない・・」と記述 |
帝政ロシア |
1926 | 大正15 |
高田屋嘉兵衛100年祭にソ連を代表して大使・領事・通商代表が出席。 神仏合同の祭壇に玉串奉奠と焼香をする。 ヤンソン通商代表が感謝の意を述べる。 |
ソビエト連邦 |
1956 | 昭和31 |
高田屋嘉兵衛130年祭にソ連チビンスキー公使より祝電 『高田屋嘉兵衛を偲ぶ事はソビエト人民にとって意義の深いものです・・』 |
ソビエト連邦 |
1958 | 昭和33 |
函館の高田屋嘉兵衛銅像除幕式に 東京よりソ連大使館イワノフ参事官が出席。 |
ソビエト連邦 |
1959 | 昭和34 | フェドレンコ駐日ソ連全権大使が函館の高田屋嘉兵衛銅像を訪ねる。 | ソビエト連邦 |
1987 | 昭和62 |
高田屋七代目が館長を務める北方歴史資料館にゴローニンの子孫が 胸像を贈呈。その後、訪問する。 |
ソビエト連邦 |
1997 | 平成9 | パノフ駐日ロシア連邦全権大使が北方歴史資料館を訪問 | ロシア連邦 |
2006 | 平成18 | カムチャツカ州が山にタカダヤ・カヘイと銘々 | ロシア連邦 |
ロシアからの評価の要約は以下ではないでしょうか?
1813年にゴローニン事件を解決した日本初の民間外交官で商人。
日露関係の始まりに、日本の利益だけではなく、
ロシアから戻った後はロシア人に代わって幕府と折衝したのでロシアの利益も代表していた。
ロシアの外交官で「タカダヤ・カヘイ」を知らなかった方とはお逢いしたことがありません。
一方、日本。
保守的な幕府官僚達が、「旗あわせ」の言いがかりを付け闕所となり高田屋を潰しました。
1911年正五位を受勲し、名誉の回復は果たしています。
現在も、高田屋の活動はすべて私財を使い活動しております。
しかし、それでも民間の活動・発言を快く思わない方が居るようです。
ある意味ロシアと同じく一貫していると言えますが・・・・・・
嘉兵衛拿捕事件
[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/09/03(水) 18:29
なぜ、高田屋嘉兵衛が拿捕されたのか?
資料・証拠としては一切残っていませんが、状況証拠として考えるべきPOINTがあります。
1.なぜ、嘉兵衛が小型船(観世丸)であの危険海域に行ったのか?
2.なぜ、たまたま日露双方にメリットのある嘉兵衛が偶然に拿捕されたのか?
3.なぜ、拿捕されてディアナ号に乗り組む際に嘉兵衛の帯刀が許されたのか?
私の考えでは、幕府に依頼されてロシアに故意に拿捕されたと考えるのが正しいと思います。
ゴローニン事件後、オランダなどからロシアの国力を知った幕府が解決に窮して
高田屋嘉兵衛に依頼をし、承諾した嘉兵衛が拿捕されるべく、現場海域で待っていたのでしょう。
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