高田屋の主張

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高田屋と北方領土[高田屋の主張]

投稿日時:2008/09/11(木) 13:03

今後も、昨日(9/10)の「2枚の地図」のように、

北方領土についての話題を取り上げる事もあると思います。

 

その理由は、国内外からの一般的な評価は

『高田屋嘉兵衛=日露外交の先駆者であり、公共事業も数多く手がけた大商人』

 

ご存知の通り、重要な側面は

『こんにちの北方領土周辺は、高田屋が開発した、高田屋のテリトリーだった』

と言う事実です。

 

年号

 

 嘉兵衛の軌跡

 

 備考

1798  

 

近藤重蔵、最上徳内

エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる

1799

 

幕府役人近藤重蔵の委託を受け

クナシリ-エトロフ島の航路を開く

 
1800 エトロフ島17ヶ所に漁場を開く  
1801 ウルップ島などの幕府巡察に従う  
1802 エトロフ島アリモイに築港  
1810 幕府からエトロフ場所の請負拝命  

 

ソ連時代から、数回ロシアに招かれて訪問しておりますが、彼らの認識は

高田屋嘉兵衛⇒日露外交の先駆者、大商人

 

高田屋嘉兵衛=領土問題の元祖

このことは知らなかった方が多いようです。

 

1991年 ソ連の日刊「太平洋の星」I.ゴルバチェンコ氏が

函館の北方歴史資料館を取材した記事の一部を掲載します。


 ここでは、たくさんのことを考える。ただひとつの想いだけがこびりついている。

「彼の記念像があるのは、きわめて正当なことだ。

これは、日本の商人と2人のロシア人航海者の3人の人間的な運命の資料館なのだ。

彼らは、その子孫たちが、自分たちがいなくなった後で、

お互いの間に『北方領土』のカベを数十年を重ねてこしらえるとは思いもよらなかった。

正しき者に神意あれ・・・・・」。

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2枚の地図[高田屋の主張]

投稿日時:2008/09/10(水) 18:05

ここに2枚の地図があります。

1739年ロシアのシュパンベルグが千島のウルップ島までの地図を作成したものの複製と思われます。

 

英語版は1764年イギリス発行の「カムチャッカ誌」の綴じ込み地図

 

フランス語版は1768年フランス発行の「シベリア旅行記」の地図帳のクリルの部分

 

地図の形状、記載事項が完全に一致していることから、

原版の忠実な翻訳・複製品であることがわかります

 

ここで注目するべき点があります。

 

地図を拡大してみましょう。

英語版

 

フランス語版

地図には各々英語、フランス語で「ロシアのクリル列島の地図による」と書かれ

「マツマエ」と書かれた北海道の隣の

緑の島と表示された国後・択捉の下には

 

「日本人の島」と書かれているのです。

 

ということは、この2枚の地図の意味するところは、

「当事、ロシアも択捉国後は日本人の島と認識していた証拠」

 

ソ連時代にレニングラードで現地テレビ局主催で討論会を開きました。

ロシアの高名な歴史学者が上の2枚の地図と同じ地図の写真を持参されたので

私も提示したところ、「私の地図には文字なんかない。」と、たちまち不機嫌になりました。

 

●初めから書いていなかったのか?

●字だけ削除して写真に撮ったものか?

 

英語、フランス語記載内容の一致、忠実な複写を考えると

原版にロシア語で何が書かれていたかは、自ずと判ることではないのでしょうか?

 

このエピソードの詳細は2007/11/20号の「財界」高田嘉七のエッセイとして掲載されました。

 

2枚の地図は高田嘉七が館長を勤める

函館の登録博物館、北方歴史資料館に展示されています。

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ニキータ・ミハルコフ[高田屋の主張]

投稿日時:2008/09/09(火) 12:20

1986年に初めてソ連に訪問して以来、様々な友人が出来ました。

その中でも、自宅に招待されたり親しくさせていただいているのがミハルコフ。

Nikita Sergeyevich Mikhalkov

Никита Сергеевич Михалков

1945年生 映画監督・脚本家・俳優

http://www.trite.ru/

1987年「黒い瞳」

1991年「ウルガ」 ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞

1994年「太陽に灼かれて」 カンヌ国際映画祭グランプリ アカデミー賞外国語映画賞

近年有名なのは「12人の怒れる男」

 

ミハルコフの父君は、セルゲイ・ミハルコフ

ソビエト国歌、ロシア国歌の作詞者です。

 

右端の女性は、ミハルコフの娘、女優のアーニャです。

たくさんのロシア人に日露関係史に興味を持っていただきたいと思っています。

 

ミハルコフの自宅にて、隣がアーニャの夫で私の弟分バコフ・アルバート。

ニキータ・ミハルコフ 七代目高田屋の名誉モスクワ支店長に任命。

 

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日本初の民間外交官としての嘉兵衛[高田屋の主張]

投稿日時:2008/09/07(日) 13:44

高田屋嘉兵衛に対するロシアからの評価は

時代・体制・政権がどう変わっても常に尊敬を受けてきています。

帝政ロシア・ソビエト連邦・ロシア連邦の高田屋嘉兵衛に対する評価は全く変わっていません。

 

 

西暦

 

 年号

 

 出来事

 

 国体

1814 文化11 オホーツク長官よりゴローニン事件解決の感謝状を戴く 帝政ロシア 
1854 安政元 遣日大使プチャーチンが箱館に来た際に遺族への贈り物を申し出る 帝政ロシア
1861 文久元

 

ニコライ司祭箱館に来た際に遺族へロシア人画家による肖像画を持参。

日記には「長生きしていたら、逢えるかも知れない・・」と記述

帝政ロシア
1926 大正15

 

高田屋嘉兵衛100年祭にソ連を代表して大使・領事・通商代表が出席。

神仏合同の祭壇に玉串奉奠と焼香をする。

ヤンソン通商代表が感謝の意を述べる。

ソビエト連邦
1956 昭和31

 

高田屋嘉兵衛130年祭にソ連チビンスキー公使より祝電

『高田屋嘉兵衛を偲ぶ事はソビエト人民にとって意義の深いものです・・』

ソビエト連邦
1958 昭和33

 

函館の高田屋嘉兵衛銅像除幕式に

東京よりソ連大使館イワノフ参事官が出席。

ソビエト連邦
1959 昭和34 フェドレンコ駐日ソ連全権大使が函館の高田屋嘉兵衛銅像を訪ねる。 ソビエト連邦
1987 昭和62

 

高田屋七代目が館長を務める北方歴史資料館にゴローニンの子孫が

胸像を贈呈。その後、訪問する。

ソビエト連邦
1997 平成9 パノフ駐日ロシア連邦全権大使が北方歴史資料館を訪問 ロシア連邦
2006 平成18 カムチャツカ州が山にタカダヤ・カヘイと銘々 ロシア連邦

 

ロシアからの評価の要約は以下ではないでしょうか?

 

1813年にゴローニン事件を解決した日本初の民間外交官で商人。

日露関係の始まりに、日本の利益だけではなく、

ロシアから戻った後はロシア人に代わって幕府と折衝したのでロシアの利益も代表していた。

 

ロシアの外交官で「タカダヤ・カヘイ」を知らなかった方とはお逢いしたことがありません。

 

一方、日本。

保守的な幕府官僚達が、「旗あわせ」の言いがかりを付け闕所となり高田屋を潰しました。

1911年正五位を受勲し、名誉の回復は果たしています。

現在高田屋の活動はすべて私財を使い活動しております。

しかし、それでも民間の活動・発言を快く思わない方が居るようです。

ある意味ロシアと同じく一貫していると言えますが・・・・・・

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クロンシュタット市訪問の模様[高田屋の主張]

投稿日時:2008/09/05(金) 16:22

ゴロウニン艦長、リコルド副艦長としてディアナ号が出航したのが

クロンシュタット港です。

現在もロシア海軍の最重要港のひとつと位置づけられています。

高田屋7代目として、高田嘉七が表敬訪問してまいりました。

 

ネバ川に停泊している戦艦オーロラ号。

その折にサンクトペテルブルグの海軍博物館にも立ち寄りました。

なかでも、荘厳な空間が下の写真のブース

 

飾ってある軍服は

2000年8月に原子力潜水艦K-141クルクスがバレンツ海で沈没した際の機関長の軍服。

多くの犠牲者に対し、心より哀悼の意を表します。

 

こんなアクシデントもありました。

 

なんだかお分かりでしょうか?

カモメの触雷の瞬間です。

黙祷

 

 

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