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年表
高田屋嘉兵衛 関係年表
西暦 |
年号 |
月 |
年齢 |
高田屋嘉兵衛事柄 |
日本 |
ロシア及び世界 |
1769 | 明和6 | 1 | 1 |
淡路国津名郡志本村に生まれる 幼名菊弥 |
兵庫津が尾崎藩から 幕府領に編入 |
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1771 | 明和8 | 近藤重蔵生まれる | ||||
1775 | 安永4 | 7 |
都志本村医師小出氏から読み書きを習う 都志川の河口で潮の干潮を調べる |
間宮林蔵生まれる | ||
1781 | 天明元 | 13 |
家を出る 都志浦新在家の親戚弥右衛門方に寄宿して漁業を始める 和田屋喜十郎方で商売の手伝いを始める |
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1786 | 天明6 | 18 |
林子平「三国通覧図」刊行 青島俊蔵、最上徳内らが幕命 により蝦夷地・千島列島を探検
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1787 | 天明7 | 3 | 21 | 家斉が11代将軍になる | ||
8 | 松平定信が執政となる | |||||
1789 | 寛政元 | 21 |
都志浦新在家の網屋幾右衛門 二女ふさと知り合う |
クナシリ・メナシの乱おこる | ||
1790 | 寛政2 |
兵庫の出て堺屋喜兵衛方に身をよせ 樽廻船の水主として働く |
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1791 | 寛政3 | 林子平「海国兵談」刊行 | ||||
1792 | 寛政4 | 24 |
兵庫西出町でふさと世帯を持つ 水主から表仕に出世 (表仕:船の針路を指揮する役) |
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9 |
ロシア使節ラクスマンが 神昌丸の漂流民大黒屋光太夫・磯吉を連れて根室に来航し通商を求める |
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1793 | 寛政5 | 25 | 沖船頭(雇われ船頭)に出世する | |||
6 |
ラクスマン陸路松前へ行き幕府役人と会見。 幕府側 「通商問題は長崎でのみ交渉しうる」として 長崎入港許可証(信牌)を渡して帰国させる。 |
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1794 | 寛政6 | 26 | 紀州熊野沖で大規模な鰹漁を行う | |||
1795 | 寛政7 | 27 |
和泉屋伊兵衛の船に乗り 出羽国酒田(山形県)に航海する |
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1796 | 寛政7 | 28 |
辰悦丸が完成 持船船頭となり箱館に交易 高田屋の屋号を公称 |
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1797 | 寛政9 | 1 | 29 |
兵庫の家で太陽が北海から昇る夢を見て、 北海雄飛の決意を固める |
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1798 | 寛政10 | 30 | 箱館大町に出店 | |||
7 |
近藤重蔵、最上徳内らが エトロフ島のタンネモイに 「大日本恵登呂府」の標柱を立てる |
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1799 |
寛政 11
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1 |
幕府 東蝦夷地を7年仮直轄とする |
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31 |
幕府がエトロフ島海路試乗の船頭募集 嘉兵衛応募する |
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4 | 幕府の蝦夷地御用御雇となる | |||||
7 |
幕府役人、近藤重蔵の委託を受け クナシリ-エトロフ島間の航路を開拓 |
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12 |
エトロフ島開発の幕命を受け、 兵庫で物資・資材・職人の手配を行う |
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1800 |
寛政 12 |
4 | 32 |
近藤重蔵に従い、辰悦丸以下5艘の手船でエトロフ島に航海 西海岸に17ヶ所の漁場を拓く |
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5 |
伊能忠敬 蝦夷地を測量する |
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10 | 幕府から蝦夷地開拓用の官船5艘建設の命を受けて兵庫に帰る | |||||
1801 |
享和 元 |
3 | 33 | 兵庫を出発して官船5艘を箱館に廻航 | ||
5 | 弟嘉蔵と手船でウルップ島などの幕府の蝦夷地巡察に従う | |||||
10 |
幕府から蝦夷地定雇船頭を命ぜられ 三人扶持、手当金27両、名字帯刀を許される |
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幕府から幌泉漁場請負を命じられる | ||||||
官許を得て箱館恵比須町の浅瀬を埋め立て屋敷を建てる | アレクサンドル1世即位 | |||||
1802 |
享和 2 |
34 | エトロフ島アリモイに築港する | |||
3 |
幕府 蝦夷奉行(箱館奉行)を置く |
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7 |
幕府 東蝦夷地を直轄地とする |
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1803 |
享和 3 |
35 |
淡路・兵庫からハマグリ・シジミ・コイ・フナ・ウナギなどを箱館及びその近郊に移植。 摂津池田の松・杉苗を箱館山や亀田に植林 |
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1804 |
文化 元 |
9 | ロシア使節レザノフが信牌を携え通商を求めて長崎に来航 | |||
36 |
幕府前年より箱館港中に築島を埋築 嘉兵衛その接続地に自費で825坪の尼を増築、船作事場(造船場)をつくる。 蝦夷地造船事業の始まり |
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1805 |
文化 2 |
3 |
日本側レザノフの通商要求を拒否 信牌も取り上げ帰国させる |
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37 | 箱館奉行の食料自給政策に協力し、箱館の開墾を進め、大阪・淡路から農民数十戸を移住させる。 | |||||
根室場所を開き、幕府から請負を命じられる。 江戸・大阪に出店する。 |
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1806 |
文化 3 |
38 | 幕府の直捌制度実施に伴い、蝦夷地御用取扱人(物産売捌方)に指名される。 | |||
9 |
フォボストフらがカラフトに来襲 略奪暴行 |
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10 |
箱館大火により自店を類焼する。 私財を投じて被災者へ米・銭・古着などを与え、長屋を建てるなど救援活動を行う。 津軽、秋田から材木、大阪から日用品を運び、元値で販売。困窮者には年賦で放出。 |
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1807 |
文化 4 |
39 | 箱館大火に伴い新たに土地を下附され、箱館大町に新店舗を建てる | |||
3 |
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幕府、西蝦夷地を直轄地とする。 松前氏を陸奥国梁川に転封 |
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4 | フォボストフらがエトロフ島や利尻島に来て略奪暴行 | |||||
5 | 幕府は南部・津軽・佐竹・庄内藩に出兵を命じ、輸送に高田屋の船が徴発される。 | |||||
6 |
ナポレオンとアレクサンドル1世がティルジットで会談。 平和条約締結 |
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7 | ゴロウニン、ロシア政府より千島海域の地理調査の命を受け、ディアナ号でクロンシュタットを出航 | |||||
10 | 幕府、箱館奉行所を松前に移し、松前奉行所と改称する。 | |||||
12 | 幕府、ロシア船打払い令を出す。 | |||||
箱館大火の教訓から大阪より井戸掘り職人を箱館に呼び、箱館市九ヵ所に井戸を掘る。 | ||||||
1808 |
文化 5 |
40 | 恵比寿町に蔵九戸を建て、米価下落時に越後や東北から米を買い入れ、非常用の備米とする。 | |||
1809 |
文化 6 |
3 | 41 | 幕府から官船建造(45隻)の功績と、ロシア来襲時の兵員輸送等への尽力を賞せられる。 | ||
自費で松前街道を修理 | ||||||
7 |
間宮林蔵、カラフト、アムール川地方を探検。 弟嘉四郎がこれに従ったとの説あり |
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1810 |
文化 7 |
42 | 場所請負制を復活させようとする幕府から、エトロフ場所の請負を命じられる。 | 円通「仏国暦象編」刊行 | ||
1811 |
文化 8 |
6 | 43 |
ロシア軍艦ディアナ号が千島列島調査・測量中、クナシリ島に来航する。 松前奉行所クナシリ詰役人がディアナ号艦長ゴロウニンら8名を捕え箱館に連行。 ゴロウニンは松前へ連行、拘留される。 |
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1812 |
文化 9 |
8 |
ディアナ号副艦長リコルドがゴロウニンら救出のため、中川五郎治ら六人の漂流民を連れてクナシリ島へ来航する。 交渉のため陸へ送った五郎治から、ゴロウニンは死んだと報告を受けるが、リコルドは確たる証拠を得るため海上を通る日本船を拿捕し真実を聞き出そうと判断。 |
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44 | 嘉兵衛、手船観世丸でエトロフ島から箱館へ向かう途中、クナシリ島ケムライ沖でディアナ号に拿捕され、水主ら五人と共にペトロパブロフスクカムチャッキーに連行される。 | |||||
9 | 嘉兵衛、抑留生活始まる | |||||
嘉兵衛とリコルドは、ゴロウニン釈放へ向けた協議を行う | ||||||
11 | 実弟嘉蔵、嘉兵衛の無事帰国を祈って都志八幡神社に願文を捧げる | |||||
1813 |
文化 10 |
2 | 45 | 嘉兵衛に同行した水主文治が病死 | ||
3 | 嘉兵衛に同行したアイヌ人シトカと水主吉蔵が病死 | |||||
5 | リコルドと共にディアナ号にてクナシリ島センペコタンに入港、クナシリ会所とディアナ号を往復して、ゴロウニン事件解決のために日露両国の周旋を努める。 | |||||
7 | ディアナ号、解放条件として示された日本側の要求を受けた公文書を用意するため、オホーツクへ向け出航。 | |||||
9 | ディアナ号箱館に入港する。 | |||||
26日リコルド、ゴロウニンらの引き渡しを受ける | ||||||
29日ディアナ号、リコルド・ゴロウニンらを乗せて箱館を出航。 ゴロウニン事件無事解決 |
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10 | 箱館の弥名寺に監禁されていたが、帰宅を許される。 |
手船18艘が都志浦に集まる。 500人の船員が山高の船旗を振り、都志八幡神社まで列をつくった。 |
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1814 |
文化 11 |
3 | 46 | 嘉兵衛、許されて再び幕府の蝦夷地定雇船頭となる。 | ||
5 |
ゴロウニン事件解決の功を賞せられ、幕府から金5両を下賜される。 | |||||
12 | 根室場所を請け負う。 | |||||
1816 |
文化 13 |
ロシアでゴロウニンの「日本幽囚記」が刊行される | ||||
48 | 根室場所荒天続きで大損害を受ける | |||||
1818 |
文政 元 |
6 | 実弟嘉蔵、嘉兵衛の無事帰国を感謝して都志八幡宮の隋神門を寄進 | |||
9 | 50 | 病気養生のため、郷里都志へ帰る途中、江戸で絵師朗卿に肖像画を描かせる。 | ||||
1819 |
文政 2 |
51 | 幌泉場所請負人を命ぜられる | |||
箱館付近不漁で窮民続出のため、弟金兵衛が箱館尻沢辺海中の巨石(通称亀石)を屋敷に引かせ米銭を給与。 約1千人が恩恵を受けたという。 |
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1821 |
文政 4 |
12 |
幕府、蝦夷地直轄支配をやめる。 松前藩復領 |
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53 | 幕府の政策転換により、蝦夷地定雇船頭を免ぜられ、手当として米七十表賜る。 | |||||
1822 |
文政 5 |
2 | 54 | 大阪野田に別荘を建て、病身の妻ふさを養生させる。 | ||
10 |
嘉兵衛の弟金兵衛、松前藩御用達となる。 箱館を高田屋の本店とする。 |
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1823 |
文政 6 |
55 | 都志本村と宮村の灌漑用川池築造に際し、費用のほとんどを搬出する。 | |||
1825 |
文政 8 |
2 | 幕府、異国船打払令を出す | |||
オランダ甲比丹から入手したオランダ語訳を元に「日本幽囚記」邦訳が出版される。 | ||||||
都志浦の波戸修築工事に際し、10年間にわたり多額の寄付をする。 | ||||||
1826 |
文政 9 |
58 | 津名郡塩尾浦の港改修工事に際し、銀66貫目(金千両)を寄付する。 | |||
阿波藩主蜂須賀氏から功労を賞され小高取格に取り立てられ、名字帯刀を許される。 | ||||||
1827 |
文政 10 |
59 | 徳島城において阿波藩主蜂須賀氏に拝謁する。 | |||
4 |
(5日)没する。 法号は高誉院至徳唐貫居士 葬儀は長林寺にて執行 都志本村の茅生の隈に埋葬 墓碑は多門寺に建てられる |
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1831 |
天保 2 |
塩尾港の工事が完成 | ||||
1832 |
天保 3 |
5 | 高田屋、ロシア船と密貿易をしたとの嫌疑をかけられ松前藩の取調を受ける。 | |||
11 | 江戸に呼び出され、翌年にかけて幕府の取調を受ける。 | |||||
1833 |
天保 4 |
2 | 判決が言い渡され、高田屋は闕所となり財産を没収される。 | |||
1861 |
文久 元 |
ロシア司祭ニコライが箱館に来日し、嘉兵衛肖像(ロシア人画)を遺族に渡す。 | ||||
1869 |
明治 2 |
四代目篤太郎の出願により 政府は高田屋の無罪とする。 1833年闕所処分の冤罪が確定。 |
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1906 |
明治 39 |
高田屋嘉兵衛の塩尾改築記念碑が建立される。 | ||||
1911 |
明治 44 |
嘉兵衛に正五位が贈られる。 | ||||