高田屋の主張

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カムチャツカ 「カヘエ岩」

[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/10/18(土) 14:45

ロシア カムチャツカ州 ナリチェボ国立公園内

北緯53.34.50

東経158.45.23

標高1,054m

ゴローニン副艦長、リコルド艦長 生誕230周年

高田屋嘉兵衛 生誕235周年を記念して

2006年8月22日付でナリチェボ国立公園内の無名の山に3人の名前が付けられました。

上がナリチェボ国立公園が命名を決定した書類です。

カヘエ崖は、ゴローニン山の岩の突起部分です。

 

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唱歌「高田屋嘉兵衛」

[高田屋嘉兵衛] 投稿日時:2008/10/11(土) 16:56

高田屋嘉兵衛 唱歌

 

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高田屋は物申す

[高田屋は物申す] 投稿日時:2008/10/07(火) 16:51

 「物申す」は一般的に「イチャモンを付ける」の意味に使用されておりトップの表題にはいかがかと思いますが、最初の意図は「高田屋」として現在の北方領土問題の根源に係る事が、如何にも尤もらしく喋々されているので「物申したく」立ち上げたかった為です、その後いろいろ書きたいことが増えてきたのでご覧のような内容になって行くようです、そこで物申すのエキスを下記します。

 

 『北方領土の最北端の日本では四国の次に大きい択捉島は(面積は3184㎡で鳥取県3498㎡に近い広さ)1799年高田屋嘉兵衛すなわち高田屋が、国後島からの安全な航路を開発し、1800年から日本の国民、行政、軍隊が常住出来るようになり、日本の領土としての態をなすにいたった島であります、高田屋は1800年択捉島に、17ヶ所の漁場を開き産業を興したいわば択捉や1800年以前から日本領であった、国後島、歯舞諸島、色丹島を含め一帯全域は高田屋のテリトリーです。

 

 その北方領土4島をその歴史的由来を知ってか知らずか、2島返還でもよいような話が乱れ飛んでおりますが、そもそも北方4島であるから2島は半分と勘違いさせるような詭弁を用いている輩が多すぎます、北方領土の総面積は5,036㎡で、愛知県の5,147㎡に匹敵する広大な面積であり、そのうちの2島(歯舞、色丹)は唯の7%に過ぎない(357㎡)正に詭弁である、とくに総面積の半分で手を打とうなどと実現不可能な(択捉島の中に国境線を引くのか、択捉島をいらないと云うのか)説を説く者もいる、辞書の非国民、売国奴の使用例に「ーーを言う人を指す」と使えるのではとさえ編纂者に提案したいくらいです。

 

以上、高田屋は物申します

 

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当家と、北前そば高田屋フランチャイズチェーンは関係ありません。

[雑談] 投稿日時:2008/10/05(日) 21:37

“北前そば 高田屋”なるフランチャイズチェーン店があります。

時々問い合わせがあるので明言いたします。

 

高田屋嘉兵衛系統の高田家とは関係はありません。

 

創業者が札幌在住の高田氏だったとの事ですが、当高田屋とは関係のない人物・会社です。

タスコシステムなる運営会社も当高田屋は関係がありません。

北前~高田屋を名乗り、高田屋嘉兵衛の名前を引用しているのなら、

一言あっても良さそうなものですが一切無し。

あまり御行儀の良いやり方ではありませんね。

 

近々に 山高屋号の高田屋ブランドを復刻させる企画がございます。

山高 高田屋本家は、創業者の遺訓を受け継いだと判断出来るものだけに

山高 高田屋の屋号を付与する完全ブランド復刻をコンセプトにいたします。

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今日のソ連邦 1989年1月1日号

投稿日時:2008/10/02(木) 19:13

現在のノボスチ通信社にあった

ソ連大使館広報部が発行していたのが「今日のソ連邦」。

その1989年の一番最初、1月1日号の掲載記事です。

嘉兵衛の子孫、高田嘉七と

ゴローニン中将の子孫、ピョートル・ゴローニンが

レニングラード地理学協会で古文書を調査している模様なども掲載されています。

リコルドが著書の嘉兵衛肖像に捧げた言葉

 

「どの土地にもそれぞれの習慣がある。

しかし、真っすぐな善良な行為はどこでもそのまま通用する。」

 

帝政ロシア・ソ連・ロシア連邦と体制が変わっても、

ロシアの嘉兵衛に対する評価は、まったく変わっていません。

 

「今日のソ連邦」 マキシム・ルイリスキー記者(当時)は次のように記述しています。

嘉兵衛は、その権威と影響力が幕府の邪魔になるに及び、隠居し、1827年、その生涯を閉じた。

 

司馬遼太郎の「菜の花の沖」では、嘉兵衛が晩年、急に“燃え尽きた”ような記述になっています。

この小説の終盤の物足りなさを感じるのは私だけでしょうか?

司馬遼太郎晩年の作品でもあり、作者の“燃え尽き”を感じさせる結末部分だと思っています。

司馬遼太郎作品の中でも、フィクション部分よりも史実に重点を置いている中盤に比べ、

終盤の「書き急ぎ」が非常に残念に思います。

 

司馬遼太郎の作品は描写が素晴らしく、彼の作品が歴史となってしまい、

彼自身の価値観の影響は非常に強い特徴があります。

司馬遼太郎作品で触れられなかったこと

=史実としての重要視されない

=現実と思われない

このような錯覚を読者に与えてしまうことが残念でなりません。

(そうさせるのが司馬遼太郎の凄さでもありますが!)

その作品の中で触れられなかったことの方が、

高田屋嘉兵衛の歴史・功績・謎には興味深いことが多いように思っています。

 

菜の花の沖を読んだ後の「物足りなさ」の理由が自身でもわかりませんでしたが

マキシム・ルイリスキー記者の記述を目にしたときに理由が判った気がしました。

 

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