高田屋の主張 ブログテーマ:高田屋は物申す

高田屋は物申す

[高田屋は物申す] 投稿日時:2008/10/07(火) 16:51

 「物申す」は一般的に「イチャモンを付ける」の意味に使用されておりトップの表題にはいかがかと思いますが、最初の意図は「高田屋」として現在の北方領土問題の根源に係る事が、如何にも尤もらしく喋々されているので「物申したく」立ち上げたかった為です、その後いろいろ書きたいことが増えてきたのでご覧のような内容になって行くようです、そこで物申すのエキスを下記します。

 

 『北方領土の最北端の日本では四国の次に大きい択捉島は(面積は3184㎡で鳥取県3498㎡に近い広さ)1799年高田屋嘉兵衛すなわち高田屋が、国後島からの安全な航路を開発し、1800年から日本の国民、行政、軍隊が常住出来るようになり、日本の領土としての態をなすにいたった島であります、高田屋は1800年択捉島に、17ヶ所の漁場を開き産業を興したいわば択捉や1800年以前から日本領であった、国後島、歯舞諸島、色丹島を含め一帯全域は高田屋のテリトリーです。

 

 その北方領土4島をその歴史的由来を知ってか知らずか、2島返還でもよいような話が乱れ飛んでおりますが、そもそも北方4島であるから2島は半分と勘違いさせるような詭弁を用いている輩が多すぎます、北方領土の総面積は5,036㎡で、愛知県の5,147㎡に匹敵する広大な面積であり、そのうちの2島(歯舞、色丹)は唯の7%に過ぎない(357㎡)正に詭弁である、とくに総面積の半分で手を打とうなどと実現不可能な(択捉島の中に国境線を引くのか、択捉島をいらないと云うのか)説を説く者もいる、辞書の非国民、売国奴の使用例に「ーーを言う人を指す」と使えるのではとさえ編纂者に提案したいくらいです。

 

以上、高田屋は物申します

 

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北方歴史資料館

[高田屋は物申す] 投稿日時:2008/10/01(水) 09:46

登録博物館

北方歴史資料館

〒040-0065

函館市末広町23-2

℡(0138)26-0111

館長 高田嘉七 (高田屋七代目)

 

●開館時間 

  午前9:30~午後5:00

●覧観料金 

  一    般 500円

  小・中学生 200円

   高・大学生 300円

●アクセス

 ・JR函館駅 徒歩15分

 ・函館駅よりタクシー5分

 ・市電十字街下車 徒歩2分

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1833年 高田屋闕所 その背景を考える

[高田屋は物申す] 投稿日時:2008/09/27(土) 13:23

【高田屋闕所 その背景とは】

その理由を簡潔に表現すると

「現代にあっても大変進歩的な経営思想であったため、協力者であった幕府が恐れた」

 

『進歩的な経営思想』については、次回以降に詳しく解説していきますが

「利益の社会還元」がその大きな特徴の一つとして挙げられるでしょう。

「適切な企業の社会奉仕はより一層の利益となり企業に還元される」という概念です。

 

その時の社会情勢は、年表などを年号で何が起きたか?だけを見てしまうと見えては来ません。

改革・事件などはピンポンイトで見ずに、ある事柄が起きた原因は、

「その以前から続いていた問題がその膿が充満して堪えきらなくなったときに爆発して起きた」

と考えると見えてきます。

 

当時の社会情勢は、次の3点に要約されるでしょう。

・松平定信の寛政の改革による重農主義・鎖国主義の強化政策の膿が相当溜まった時代。

・天保の飢饉、極端な重農主義により、幕府財政が相当疲弊した状態。

・その後まもなく「大塩の乱」が発生したように、政策に対する不満が非常に高まっていた時期。

 

高田屋の価値観と幕府が相容れないのはどのような所か考察します。

 

●場所繁栄のため、扱い高の半分を和人、アイヌ、使用人、一般人の別なく配分

松前藩のアイヌからの過酷な収奪とは全く異なり、アイヌの尊厳を守る嘉兵衛の思想は

和人国家、身分制度を政策の基盤とする幕府の思想とは相容れないものだったでしょう。

 

●現代の法人に通じる概念

高田屋のため私情を排し長男を廃嫡、実力主義で弟金兵衛生に跡を継がせた思想は

幕府の家督相続の基本方針とは全く異なるものです。

 

●新しい国家感

ゴローニン事件解決の際の嘉兵衛の「国益」の概念は、

為政者である幕府にとっては「幕益」と異なる危険な思想と考えた者もいたはずです。

 

●近代経営による強大な資金力

・高田屋の繁栄に比例して衰退する松前場所は当然高田屋を潰すチャンスを狙っていたでしょう

・無策で疲弊した幕府財政は、高田屋の膨大な資金の収奪は非常に魅力的だったはずです。

・維新の萌芽は芽生えていたはずで、高田屋の資金力とこれが結んだときの驚異も考えたでしょう。

・同様に高田屋の資金力とロシアとの結びつきの危険も考えたはずです。

 

■幕益至上主義の幕府

■公益・国益を根幹とする高田屋の思想

幕府は高田屋を幕益に対する脅威と判断した結果起こった事件だったのです。

尚、維新直後の1869年、明治政府は高田屋無罪を認定しますが

維新政府の財政危機、政権の安定が確立していない状態であったこともあったでしょうが

冤罪で国庫に没収された財産の返還は未だに1銭も為されていません。

 

 

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2枚の地図

[高田屋は物申す] 投稿日時:2008/09/10(水) 18:05

ここに2枚の地図があります。

1739年ロシアのシュパンベルグが千島のウルップ島までの地図を作成したものの複製と思われます。

 

英語版は1764年イギリス発行の「カムチャッカ誌」の綴じ込み地図

 

フランス語版は1768年フランス発行の「シベリア旅行記」の地図帳のクリルの部分

 

地図の形状、記載事項が完全に一致していることから、

原版の忠実な翻訳・複製品であることがわかります

 

ここで注目するべき点があります。

 

地図を拡大してみましょう。

英語版

 

フランス語版

地図には各々英語、フランス語で「ロシアのクリル列島の地図による」と書かれ

「マツマエ」と書かれた北海道の隣の

緑の島と表示された国後・択捉の下には

 

「日本人の島」と書かれているのです。

 

ということは、この2枚の地図の意味するところは、

「当事、ロシアも択捉国後は日本人の島と認識していた証拠」

 

ソ連時代にレニングラードで現地テレビ局主催で討論会を開きました。

ロシアの高名な歴史学者が上の2枚の地図と同じ地図の写真を持参されたので

私も提示したところ、「私の地図には文字なんかない。」と、たちまち不機嫌になりました。

 

●初めから書いていなかったのか?

●字だけ削除して写真に撮ったものか?

 

英語、フランス語記載内容の一致、忠実な複写を考えると

原版にロシア語で何が書かれていたかは、自ずと判ることではないのでしょうか?

 

このエピソードの詳細は2007/11/20号の「財界」高田嘉七のエッセイとして掲載されました。

 

2枚の地図は高田嘉七が館長を勤める

函館の登録博物館、北方歴史資料館に展示されています。

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